
何も変わらなかった
人事との面談が終わっても、何も変わりませんでした。
においは毎日そこにあり、私の体も毎日反応していました。「もう限界だ」と思いながら、それでも私は会社へ向かっていました。
毎日が苦しくて、何日経ったのかもよく分からなくなっていました。朝が来て、会社に行って、耐えて、帰る。その繰り返しでした。
一日の流れ
朝、目が覚める。まず思うのは「今日はにおいが弱いといいな」ということでした。
通勤しながら、気持ちはどんどん重くなっていく。職場に近づくほど、憂うつになる。
仕事を始めると、誰かが近くを通るたびに、無意識に身構えるようになっていました。この人はにおいがするだろうか。今日はどのくらいきついだろうか。そういうことを常に気にしながら仕事をしていました。
周りの人たちは普通に仕事をしています。笑い声も聞こえます。私だけが咳をして、頭痛に耐えていました。「どうして私だけなんだろう」そんなことを何度も考えていました。
昼休みになっても食欲はありませんでした。休憩しても、回復する感じがしない。体が一度反応してしまうと、においが遠ざかってもなかなか元に戻らないのです。
午後になると、頭痛・咳・めまい・吐き気が重なってきます。目がしょぼついて、閉じると眠気が一気に押し寄せてくる。「あと1時間だけ」と自分に言い聞かせながら、席にしがみついていました。
においから少し逃げるために、現場の倉庫で休憩(というより避難)をしながら、なんとか仕事を続けていた時期もありました。
帰宅しても、何もできません。ボーっとして横になるだけ。ご飯を作る気力もない日もありました。そして翌朝、また出勤する。その繰り返しでした。

日に日に悪化していった
最初は「午後から症状が出る」だったものが、次第に「午前中から」になり、やがて「出勤して5分でめまいや咳が出て、早退する」日が出てくるようになりました。
会社へ行くこと自体が、怖くなっていきました。
においのせいで体が動かなくなる。でも行かなければという焦りがある。「今日こそ大丈夫かもしれない」と思って出かけて、やっぱりダメで早退する。そのたびに、自分を責める気持ちが積み重なっていきました。
退職を決めた理由
体が限界だったのは分かっていました。でも、それだけが理由ではありませんでした。
何より、においの当事者が「においわない」と言って変えようとしてくれない。上司に訴えても、苦虫を噛みつぶしたような顔をされるだけで、本気で寄り添ってもらえない。一番力があるはずの人事でさえ、会話が噛み合わず、面談がむしろストレスになってしまった。
加えて、職場自体もシステムの変更が頻繁にあり、上司でさえ対応が追いつかないような状況で、部署全体が不安定な空気に包まれていました。
「辞めたい」という気持ちはありました。でも、自分一人では決断できませんでした。そこで内科医に相談しました。医師に状況を話して、退職するという判断を一緒に確認してもらいました。「これ以上は無理だ」と自分で決められたのは、そのひと言があったからかもしれません。
傷病手当のことを、社労士さんに教えてもらった
退職前、自宅療養が続く中で、相談できる人が誰もいませんでした。
そこでインターネットで社労士さんを探しました。化学物質過敏症のことを知っている社労士さんにお願いしたところ、わざわざ自宅まで来て、丁寧に説明してくださいました。
そのとき初めて、「働けなくなっても受けられる制度がある」と知りました。傷病手当です。業務外の病気やケガで働けなくなった場合に、一定期間、給与の一部相当額を受け取れる制度です。
「社労士に頼んでくれてもいいけれど、お金もかかるし自分でもできるよ」と、申請のやり方を教えていただきました。「障害年金などになるようならまた相談してね」と名刺もいただきました。
誰にも頼れないと思っていたところに、こうして親切に動いてくださった方がいたことが、どれだけ支えになったか分かりません。
最後の日は、会社に行けなかった
退職の最終日は、会社には行きませんでした。
香りのせいで出勤する体力が残っていませんでした。自宅から、会社の携帯で、お世話になった方々にメールを送りました。返信をくれた方もいましたが、私にとって「最後の日」という特別な区切りはありませんでした。
送別会も、最終出勤日の挨拶も、ありませんでした。
8年間働いた職場を、メール一本で終えました。
あの頃は、「これで終わり」ではなく、「ここからどう生きていけばいいのか」という不安しかありませんでした。
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次回は、傷病手当の申請手続きの実際と、退職後の生活について書きます。
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※この連載は私自身の体験に基づいたものです。特定の個人・企業を誹謗中傷する意図はありません。傷病手当などの制度の詳細は、お勤めの会社の健康保険組合や社会保険労務士にご確認ください。